行き過ぎたテクノロジー文明に警鐘をならす
アナログ的な世界である児玉房子作ガラス絵の世界、茨木のり子の詩をモチーフに、人間への愛と、働くこと、生きることへのオマージュを描く。遠野の美しい風景とテクノロジー文明の対極にある農法である自然栽培を通して、自然と協働し、共に生きる世界を模索する。
今、時代は
時代は物質文化から情報化時代へと進行し、今やAIテクノロジーが時代を支配しようとしている。しかしその一方で、日本は高齢化社会や人口減少社会の先進国としての大きな課題を抱えている。
人間が生産性を追求するために自然をコントロールした結果、オゾン層が破壊され、温暖化によって地球は悲鳴をあげている。
さらに、機械や人工知能で人間の労働が代理されることによって、人間はますます自然から疎外され、感情や感性が無機化していくことが危惧される。もしかしたら、AIテクノロジーの時代になると、その大切なものが失われてしまうかもしれないという危機感を覚える。
人間はもう近代文明のレールの上を走るしかないのだろうか。それによって起きる負荷をどう乗り越えればいいのだろうか。
ガラス絵と詩、そして働く人々と風景
そんな中、私は遠野で児玉房子さんのガラス絵に出合った。
児玉さんが描いた昭和と平成の世界は、現代のデジタル社会に対するアンチテーゼとして、大きな衝撃を受けた。
児玉房子さんが愛した市井の中で素朴に生きる人々や、大地と共に生きる人々の面影の中には、人が人である限り守り育て、後世に継承すべき大切なものが含まれている。
この映画は、あふれ出る命へのいとおしさと、ほとばしる愛のまなざしで描かれた児玉さんのガラス絵と、現代の遠野の自然の風景と人々とをリンクさせながら、進行する。
さらにこの映画は、近代テクノロジーとは真逆のアナログな農法である「自然栽培」に挑戦する農家の姿を追った。遠野でコメを栽培する青年 菊池陽佑夫妻と、リンゴを作る初老の佐々木悦雄氏だ。その栽培風景を、四季を通して追う。
映画のタイトルは茨木のり子さんの詩から拝借した。茨木さんの詩には、アナログ時代を生きる人々の労働の喜びがある。「どこかに美しい村はないか」茨木のり子さんの詩が巻末で、労働の喜びと美しい村の幻想を謳う。
二項対立を超えて
この映画は、人間社会の未来のために、ガラス絵に描かれた人々や風景と、現代の遠野を重ね合わせ、デジタル社会とアナログ社会の二項対立を超えるために何をどのように止揚していけばいいのかを模索した。
それが映画を見ていただける人にとっての、ささやかな希望になってほしいと思う。
プロデューサー
田下 啓子