遠野郊外附馬牛(つきもうし)にある天ケ森の中にポツンと建つ、児玉房子さんのガラス絵館の中に何があったか。
そこには房子さんが愛した市井の中で生きる人、田園で生きる人々がガラス絵の中に描かれていました。
映画を撮ろうと思った動機・その3
決して楽ではない暮らしの中で黙々と働く無名の人々です。
雑踏の市場での物売りであったり、行商の路上でキャベツを売るお婆さんたちであったり、田んぼや畑で働く農夫(農婦)であったり、お祭りで子供を背負う父親であったり屋台で酒を飲む男女であったりです。
そしてなお素敵なことは、それらの人々へ向けられた児玉さんのやさしいまなざしがありました。人間の労働へのオマージュが溢れていました。
作ることは生きること。
人間が生きるとは、何かを作り出すことでもあります。
手足や体を使って作る。頭を使って作る。言葉を使って作る。感情を燃やして作る。
自然やものにかかわり、作ることの中に全身を投げ入れ、集中し、対象の中に息吹を注ぎ込む。その時本人は気づいていないかもしれませんが、人間の喜びがあります。
なぜなら人間はそうして生き延びてきたからです。
ここにこそ、人間の本質的、根源的な、存在するということの意味と価値があるのではないかと、私には、そう思えて仕方ないのです。
テクノロジーの発達で、労働はどんどん機械に代理されていきます。AIテクノノロジーは、人間が考えることすら人工知能の代理されるかもしれません。
その時、もしかしたらこれまで世の中を下支えしてきた無名の人々の働く姿が、もう見られなくなるかもしれません。特に体を使って働く人々の姿、無言で黙々と働く人々の姿が消えてしまうかもしれません。
でもまだ、今のうちならこのガラス絵の中の人々のように、自分の手で暮らしを作り出す人々、自然と共に働く人々を撮っておけると私は考えたのです。
人間への愛着、人間へのささやかなる愛と尊敬、そんなものが消えてなるものか、と私は思うのです。
だからこそ、ここにこうして描かれている、絵描きという人間の優しいまなざしで描かれた人々とその世界を映画にしておこうと考えたのです。
映画のために訳40点のガラス絵を撮りました。それらのガラス絵は是非映画の中でご覧いただきたいと思います。
また実際に遠野の天ケ森ガラス絵館へ行って、ご覧いただけると嬉しゅうございます。
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