さて、今日からは、映画ができるまでのエピソードを書いていきましょう。
ヒューマンドキュメントを作るつもりはなかった
私は児玉房子さんとガラス絵を主体としたヒューマンドキュメントの映画をつくるつもりはありませんでした。
ドキュメンタリー映画の多くはヒューマンドキュメントですが、私はドキュメンタリーを通した<シュールな世界>を撮りたいと思っていました。
いろいろあって、一度はあきらめかけたこともありましたが、あきらめないでいいという能勢監督の言葉に励まされて、もう一度挑戦することにしました。
私が作りたかったのは、人間の感情が渦巻く世界ではなく、もっと超越した感性の世界です。
それは児玉さんが人間を描くとき、油絵の油の有機性を用いず、反対にガラスという無機性の光を通してシュールな透明世界にしていったのと同じようにです。
人間ドラマのドロドロした感情や重くなる人間の関係性を、カメラのレンズの無機的世界を通すことでそこに理性世界が生まれる。それはある浄化効果をも生み出してくれます。
ガラス絵が、ガラスを通し、透明な光を与えることで、絵が浄化され、まるで天井から俯瞰する神の視線のような効果があるのと同じでなのです。
(これは西欧の教会のステンドグラスや、キリスト教のガラス絵効果なども同じです。)
普通は逆で、カメラというもっとも理性体の無機質が作り出す世界に、いろいろな味付けをして、いかに人間ドラマとしてあらしめるか、とい努力がなされるのですが、私は、逆にカメラの自然性である無機的な理性こそが、人間を俯瞰してみる視線になれると確信していたのです。
では、ガラス絵と遠野の風景と人間というモチーフをシュールな人間賛歌として、どのように表現するか・・・?
映画が決して生々しくならないようにするには、どうしたらいいか?
それを考えあぐねていると、能勢さんから思いもかけない提案がありました。
・人間は点景で撮りましょう。
さらにハイライトとして
・夏の夜空で夜半から明けがたに消えてゆくさそり座を撮りましょう、というカメラ構想です。
それを聞いて、私は、あゝ、これでいける・・・と胸がドキドキ高鳴りました。
能勢さんは三代続くカメラマンの血筋ですから、いかにレンズの世界が理性体であるかを熟知しておられるのですね。
そこからね、もう私は救われたように、この映画作りへと一心に向かいました。
続く!
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