能勢広監督『広島原爆 魂の撮影メモ 映画カメラマン鈴木喜代治の記した広島』では、
静まり返った冒頭の映像の中で、カ~ンとピアノの単音が入ります。その後少しずつ
音程の間をとりながら、画面に合わせて単音が展開していきます。
これは、音楽としても見ものというか聞きもので、
無言の画面を見る観客が、これから何が始まるのだろう、という緊張の中、心理と集中が散らばるのを、単音一つで引き締めていきました。
まあメッセージ的にいうと、どうぞ心を引き締めてご覧なさい!という風にですかね~。そして観客がこの単音に飽き始めたころ、音楽が入るのです。絶妙なタイミングでね。
そこから画面と音楽が一体化した物語が始まりますが、またこの音楽がいいんですよ。
画面の映像が語り、音楽が語る。
映像と音の二つの芸術が互いが鏡のように舞い、幻想世界をつくりだす
映像と音の二つの芸術があるときは絡み、ある時は突き放し、ある時はうねりという風に、お互いが鏡のように舞い、映画の高揚と抑制をつくりだしていきます。
それとともに観客の心理と感情と思惟とが自在に躍動しながら、最後はある一転に向けて収束していきます。
つまり映画とは、映像と音(時に音無し)と、観客の感性とが作り出す内的なミクロコスモスなのですね。
そこは非日常の異空間であり、日常の世俗から解放された感性が自在に自由にジャンプし鼓舞し、
観客の中に眠っている潜在的な芸術世界に発火する!!
断っておきますが、芸術的な、というのは、いわゆる難しく、かしこまったものではなく、観客が潜在的に持っている<生命の飛躍(跳躍)>です。
生命の喜怒哀楽といでもいうのかな~!
それが目覚め、映像とともに喜び、躍動したり、逆に思惟や鎮静へという内的世界(ミクロコスモス)で、命が息吹を取り戻すのですね。
躍動や喜悦だけではダメで、そこに無意識の思惟が起きていないと、それは感動や感慨を生まないと私は考えています。
単なるフラストレーションの消化に終わってしまうと思います。
見終わってスッキリとする映画でさえも、どこかで観客の思惟が働いていると、私は思います。
実は『広島原爆 魂の撮影メモ 映画カメラマン鈴木喜代治の記した広島』の
音楽録音に私は立ち会わせてもらったのです。
画面に合わせながら、音楽の一音、一フレーズを何回もテストしては、植田先生とピアノ奏者の稲岡千架さんが、丁寧に、微細に、音とフレーズを作り出していきます。
稲岡さんの指先は、様々な音色をテストしては、最良の音を選び出していきました。
映画は28分ですから、音楽だけを総合すると10分~15分くらいなのか、もしかしたらそれより短いかもしれませんが、全部終了するのに約6時間かかったと思います。
映画が面白く楽しいのは、映像と音が立体的に作り出す異次元世界だからと思います。
私流にいうとい幻想世界です。
だからね、私は深刻なものや暗いものを作りたくないのです。なぜなら、人間のリアル現実こそ、そういうものだからです。
でもね、どんな人間も常に、常にですよ、一日を終えて眠りにつくとき、無意識に、明日こそは素敵になろう、明日こそはうまくやろうと、潜在的に思うものです。
つまり人間の潜在ベクトルは深刻ではなく、希望へ向かっているのです。
だから、この映画も深刻や絶望ではありません。希望です。
植田先生がどんな音楽を作り出すのか、とても楽しみにしています。
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