目がキラキラしていた菊池青年に、私が何を見たか。

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目がキラキラしていた菊池青年に、私が何をみたか。

それは彼の中にある純粋性です。それと理想と現実に向かうひたむきな意志です。
あゝこの青年で間違いない、と思いました。

単にひたむきであるだけでは、現実社会はなかなか手ごわいです。現実を相手に戦いのりきっていく能力も大事です。
<能力>とは将来を見据える力(戦略)の賢さと、しぶといしたたかさ(計算力)を持兼ね備えている実践力のことです。

自然栽培は普通のお米の収量の三分の一しか採れませんから、経済的にはなかなか大変です。

また、常にお米の様子を見ながら手仕事や体仕事で農業をやりますから、なかなかの重労働になります。それをどう乗り越えて持続可能な経済基盤にするか。

でもね、あゝこの青年ならもう<自然栽培>の困難さを乗り越えていくであろうと私は確信しました。
さっそく映画の目的と概要をお話し、撮影の許可をいただきました。

それと大事なことは奥さんです。奥さんがどんな人であるかは、とても大事なことです。

目次

人間の根源は、働く中にある。

若き青年農夫菊池陽佑さんと会い、さらに奥さんの裕美さんを見たとき、実は私はこんな風な女性の農婦を探していたのだと気づきました。

つまり私が児玉さんのガラス絵の中に見ていたのは、素朴で、ひたむきに<労働している手>をもつ女です。

それは遠い若き日に読んだパールバックの「大地」にでてくる女たちで、その姿に対するオマージュが、歳を重ねながらもずっと私の記憶の底にあり、うっすらと微かな女の光のイメージとしてあるのです。そこに私の女性観があります。

人間の尊厳は何か、というとき私はいつもこのように、無言の中をひたむきに生きる人々を思い出します。

ミレーの祈りの絵のように、ゴッホが描いた巷でいきる無名人々のように、そこに、私は限りない尊敬を持ちます。

児玉さんの絵の中にも、そういう人々が描かれています。そのまなざしの向こうには
運命を受け入れながらも、そこで懸命に生き、耐え忍んで咲いてゆく女たちの姿があります。

耐え忍ぶことはやがてその女たちの逞しさへと熟してゆき、苦労の中を生き抜いた朗らかさが生まれ、遠野のばっちゃ達の生きざまの風景へとつながっていきます。

撮影中、田植えをしながら、朗らかにしゃべりまくる遠野ばっちゃたちの姿を見ながら、私の心の中にはちょっとしたオマージュの興奮が湧きました。

人間の根源は、働く中にある、と私は考えています。

労働がなければ、人間が生きることが成立しない。そしてその労働の中でこそ、人間はその能力が鍛えられ、磨かれてゆく。
人の脳と体は根源的に、そのように仕組まれている、と私は考えています。

いかにも農婦としてある裕美さんの姿、夫と共に田園の中で生きようとするそこに、女性としての私の共感があります。

男の幻想の中で美や享楽を求めらて生きるのではない。

自立した労働力を以て、男と対等に、さらに男にはない、女としての独自の精神世界を築いていく。それこそが同じ女性として私にはまぶしいのです。

思いがけず新鮮で、ピカピカの若い青年夫婦に出会い、私の中の映画構想が着実になってきました。

さあ~、撮影(ロケ)へ船出しよう!

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