<プロデューサーのブログより>映画論その1 映像は光である!

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最初に印象派の音楽を聴いた時は驚いた。それはまるで光の世界だったからです。

それは湖面にキラキラと反射する光の欠片のように、音そのものが、音の粒子そのものが、
光に反射して乱舞している音の世界のように私は思いました。

つまり、それまでの音楽が、音によって構成された感情のドラマ(ヒューマンドラマ)であったことに比べ、
印象派の音楽は、音やメロディーが感情の重力から離れて、感覚或いは感性そのものとして解放されている、と私は感じたからです。

なぜ<解放された>とかというと、つまり音楽も絵画芸術と同じように、人間の<自我世界=ヒューマンドラマ世界>から、解放されたのだと、思ったからです。

これから私が書こうとし試みている映像の世界は、もしかしたら読んで下さる方にとってはとても分かりずらいものかもしれません。また理屈っぽいと感じられるかもしれませんね。そしてまた、私も最後まで書きぬくことができるかな~という不安があります。

でも、なるべくわかりやすく書きますから、どうぞお付き合いください。

私が最後の仕事として作った映画の底流にあるものとは、これからの未来へ向けて解明されていくであろう人間とはいかなるものか、そして人間の<根源的幸福>とはいかなるものかを、映像という<光の合成>を通して描くものです。
それは、人間も一つの現象であり、生きることは常に変化している自分を生きるということであるからです。

そのことは、先人の賢人たちも気づいており、例えば方丈記で鴨長明は

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と書いています。
これはまさに一時も止まらず変化する脳と身体の世界のことでもあります。

さらに宮沢賢治は詩「春と修羅」の序文で

「わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながら、いかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です」

と書いてあります。

つまり人間とは現象であり、瞬間的に点滅する<因果というドラマ性>を負った電流が瞬間に灯って連続している、ということです。

さらに道元が愛用した「尽十方界無一人不是自己」という言葉は、この宇宙を見渡しても、どこにも人間の自我世界なんかないよ!人間の世界はすべて人間の意識と自我が作り出したもので、そんなもん<人間の世界>だけに通用するだけであり、宇宙のどこにもそんなものはないし、ちっとも普遍的ではないよ!
と、まあこれは。わたしの勝手な独約ですが、そう言っています。

人間が解明されていけばいくほど、人間は人間が作り出した因果<ドラマ>の小さな世界に囲い込まれている、ことが分かります。

つまり人間を最終的に分解すれば、そこには小さなかけらの原子があり、そのかけらが、離合集散しては、自我という独特の因果世界をつくりだしているのに過ぎないでのです。さらに時代は進むとフロイトが現れて人間の意識の世界を包括する無意識の世界の存在に、気づきます。

常に二項対立する自我世界に比べて無意識世界はまるで、海のように広々としており、さらに様々な要旨が混沌としています。

実は人間は、この無意識世界から、必要な事を汲みだしては無自覚にそれで舵を取りながら生きているのですね。
逆に意識はつねに自分という柱をもって、他者の自我(柱)と対立しながら,人間世界を見渡しています。
そこには動物的本能が根底にあり、だからこそ対立や対抗や争いが生まれます。

イエスも釈迦も含めて先人の賢人たちが,口をそろえて言い続けているのは、人間がその自我世界から抜け出し、さらにいうと、動物的感情の世界(争いをする世界)から抜けだすことこそ、幸福をもたらすということです。

さて映像の話にもどりますが、映像とは光の合成です。つまりひとつ一つの光の分子には、ドラマがないのです。

絵画世界も、音楽世界も、そのことに気づいた人々が、それまでの感情を伴ったヒューマンドラマ世界から音や色を解放しました。
そこには人間の基本である、感覚という原点にもどる、という試みがあります。

それはもう一度繰り返しますが、感情(人間の桎梏)という重力から解放された感覚の世界です。この感覚の世界を射程に置きながら、能勢監督と共にこの映画を作りました。

感情から解放されればされるほど、浮き出てくるのは感覚の純粋性であり、人間が感動する主観には、自我が捨て去られた後の、自己への執着が透過された純粋性が浮かび上がってきます。
その純粋性こそが、この映画が探す指標です。

私の人生は、子ども頃に親から強制さえた読書の世界・・・苦笑!ともう一つ、幼児のころから、これも親から強制された音楽の世界・・・苦笑!そしてどうしてかわからないが惹かれ続けた絵画芸術の世界。そして断片的にかかわり続けた映画の世界がぐるりと私を取り囲んでいます。
さらにそこへ心理学や社会学や、思想、哲学がランダムに入り込み50代には脳科学も参戦してきました。

そういう私の世界から、垣間見えてくる人間とは何か。それを人生最後に映画として作りたいという思いで、この映画が出来ました。
だからこの映画は、ヒューマンドラマではありません。
未公開のこの映画ですが、それを見て下さった方の中には、人間の内面の掘り下げがない、という方もいますが、それは、その通りなのです。

なぜなら、この映画は、初めから人間のヒューマンドラマをめざしていないからです。つまり人間の<自我世界>を超越して人間を描こうとしているからです。
言葉でいうと、通俗を超越して超俗へといかに到達するか、がこれからの人間のテーマとなるであろうと、
私は考えます。

これからの時代はゴチャゴチャと対立し、争う人間の世界をいかに高い次元で止揚するかが、問われていくでしょう。本当はもうすでにそれが、世界レベルに問われているのにも関わらず、人間はその自我世界を未だに克服できない。特に世界の指導者たちが一番遅れています。

しかし、映像ならそれを俯瞰する視点を確保できると私は思います。意識=感情と言葉世界を、映像なら超越できると思うのです。
では、それをどのように映像化しようとしたのかを次回書きます。

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