なぜこの映画を撮ろうと思ったかについて、書いていきたいと思います。

大きな動機は、三つあります。そしてその根底に、行きすぎた文明で今人間がおかしくなりかけていると思ったことがあります。そのことを書きます。

映画を撮ろうと思った動機・その1

私はこの40年近く、人間の心理と脳のことをベースにカウンセリングをしてきました。その経験から、人間のことがとても心配になりました。

心の問題をどのように解決するかというとき、まず、そもそも人間は生まれると同時に全く未知の世界を生きなければなりません。その宿命の中で、人間は客観的な現実と心の中の記憶とをすり合わせながら、問題を解いていきます。

その時その人間の体験知や経験知の記憶がまず糸口としてあるのですが、たとえ親に口述でおそわっても、それを体験しないかぎり、その現実を理解できないのです。

例えば、アイロンは熱く、触るとやけどする、という事も、実際に熱いアイロンの熱気を感じたり、時に触ってこそ、その物体に触るとアツい!ということがわかるように、様々なる体験知や経験値が、その人間の認識として記憶されていきます。

それは物質だけではなく、子供時代の人間関係の体験が豊かであればあるほど、解決能力が高まり、逆にそこが希薄であると解決能力もが欠如していきます。

更にものごとの本質を考える、ということも、その人間の体験や経験からくる必然によって能力が高まってきます。

人間が生きるとは、人生を通して、未知の世界をだんだん理解していくこともでもあるのです。だから、歳をとっていくとだんだんこの世のことも、人間のことも、わかってくるのですね。

つまり人間が次から次から起きてくる未知のことを自分で解決していくためには、無意識の中に、たくさんの体験や経験の記憶のデーターをもっていないと、なかなか解決するいとぐちすらみつけられません。

ところがどう考えても、不自由で、物資がすくない時代に比べ、便利で、何でも手に入る文明によって逆に、体験知や経験値が奪われ、人間の脳世界の劣化が起きてきている。

なぜ簡単に若い人が傷ついたり絶望したり、こじらせたり、ニヒルになるかというと、それは、人生の体験知や、経験値が薄い、少ないからです。

またバーチャル世界の発達、つまりテレビやゲームや漫画やアニメの世界に人間がどんどんはまるにつれ、疑似体験のバーチャル世界で子供が生きだし、現実のリアル体験が希薄なまま、頭でっかちになっていく。そういう人間を文明が多排出していると思われるのです。

これはもしかしたら、人間にとっての危機かもしれないと、カウンセリングの現場からずっと考えていました。

私が案じていたとおり、テクノノロジーの発達は確かに清潔で安全で利便な世界をもたらしましたが、その反面、人間は個々にバラされ、心理的孤立や疎外やさらに、現実を解決してゆく能力は劣化しているように思います。

人間は脳と体の両方を駆使して生きることが、いわゆる生態として自然なのですが、どうも現代人は、脳の仮想世界が過多になり、体の体験が希薄になっているように思います。さらに情報社会はそれをどんどん加速させてしまいました。

それでも、労働をする、というリアリティーの中で、かろうじてバランスが保持されていましたが、もしAI文明になり、労働すらも機械やロボットが代理していくとなると、これ以上に人間の世界は脳と体のバランスが壊れ、脳過多人間、観念過多人間の世界になっていく可能性があり、人間は危うくなるのではないか、と私はずっと心配していたのです。その危惧を案じながらを私はもうあと何年かで、この世から退場しなくてはならない。

そんな時に私は児玉房子さんのガラス絵に出会ったのです。

次回は、動機その2について書きます。

夕焼けが焼けるか焼けないか、能勢監督はカメラを据えて待ちました。

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