天才的なミュージシャンRakiraさんは約2週間で、みごとな音楽を作ってくれました。

さて、映画にとって音楽とはいかなるものか。音楽は常に直截的に<存在>へとかかわってきます。映像作家は、音楽をどのように位置づけているかで映像のもつメッセージは変わってきます。
一方、理性体としてのカメラが映し出すのは、対象のありのままの姿です。

それは美しさも醜さもそのまま私たちの視界へととびこんできます。そして、人間が細工して美しくみせようとしなくても、<存在>そのものは、初めから美しく、<現象>そのものは、初めから面白いのです。

<存在>も<現象>も、もともとは<沈黙>の中にあります。そして<存在>や<現象>をどう見るかが、人間の心なのです。言い換えると<存在>も<現象>もみる人の心によって解釈され、色付けや味付けが成されるのです。この映画で言えば<存在>や<現象>をどのように心がみているかは、児玉さんのガラス絵の中にある人間へのまなざし(心)がベースとなります。

さらにそれを足場にして、この映画をつくろうとしている能勢監督はじめ。スタッフのまなざし(心)が映像を撮っていきます。そして最後に映像に実存的に突き刺さるのが音楽のまなざし(心)です。

音楽は、温度(感情)とエネルギーをもっていますから、それは直に心に刺さって行きます。映像と音楽がどのようにこの映画の心を表現していくか。そこが本当に映画の肝でもあります。

そして一般的な傾向として、映画において、音楽は映像をより効果的にする背景として使われています。温度のない映像を実存的にカヴァーするものとしての音楽です。

ところが今回、この映画においては、音楽を効果的に使うというより、映像と音楽とが、がちに拮抗しているのです。
前回で書いたようにRakiraさんは、天才ですから私たちが微細に演出的なコントロールをするのではなく、むしろ、映像はRakiraさんの直感にゆだねられた形になりました。私としては、かなりそこら辺を悩みました。

能勢監督の静謐な映像にRakiraさんの音楽の温度とエネルギーが調和し、バランスを保てるかどうかです。悩みました。しかし到達した結論は逆に、がちで映像と音楽がぶつかっても、おそらく映像と音楽で、映画の心はひとつになるだろうと、いう確信です。
正直のところ、ぎりぎりのところで、それが成ったと、思います。

それは、Rakiraさんの音楽には澄んだものがあり、不思議にえぐさがありません。えぐさとは自己執着の強い人間にあるもので、Rakiraさんそのものがそういう属性のなかに生きていないからだと思います。

Rakiraさんの音楽にも、人間賛歌が溢れています。この映画がドキュメンタリー映画であるにもかかわらずいわゆる深刻でもなく、押しつけもなく、反対に叙情豊かな映像詩になったのは、能勢監督の映像とRakiraさんの音楽が、ともに清々しく人間を謳いあげたからだと思います。

そしてこの映画の根幹にあるのは、おおいなる自然の懐に抱かれて生きようとした児玉房子さんの、ガラス絵に託した思いと、遠野の地で自然と共に生きようとする人々の生きざまがそのままに美しく、豊かであるからです。

日本の原風景は美しく、遠野にはそれがそのまま残っていますその大切なものが失われないように、その祈りとしてこの映画を作りました。皆さんにご覧いただけたら光栄です。
プロヂューサー冥利につきる映画です。

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