先日立川のオリオン書房にいきましたら、茨木のり子さんを特集した雑誌がありました。
茨木さんが使用した暮らしの道具や洋服や、住んでおられた家の様子などの写真と代表的な詩が掲載されていました。一瞬買おうかなと思ってのですが、そのほとんどをもう知っていた、見たりしているものですから、買いませんでした。
どうやら今茨木さんのブームが来ているようです。
私が初めて茨木さんの詩を知ったのは、大学在学中で、まだ21か22くらいの歳のころです。
もう、遠い記憶になってしまいましたが、私が悩んでいたのを、友人が、こんな詩があるよ、と教えてくれました。
それが「汲む」という詩です。
そこには
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな。
ぎこちない挨拶
醜く赤くなる失語症
なめらかでないしぐさ子どもの悪態にさえ傷ついてしまう頼りない生牡蠣のような感受性。
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
とありました。
あゝいつも自分では思い通りにならない自分を抱えている私。いつも自分を恥じていた私が、そのままでいいんだ、と救われました。
以来、茨木さんは、私の尊敬する女性として、とても憧れました。
茨木さんの詩は、生きることの原風景として、いつも凛と襟元をただし、背骨をしゃんと伸ばして生きることを教えてくれました。
今回も茨木さんの詩「六月」こそが、人間の労働へのオマージュとして、とても大切であることを伝えたい、と思い続けていたところに、児玉房子さんのガラス絵と出合ったのです。
「どこかに美しい村はないか」そこでは一日の労働を終え、鍬を置き、ビールでのどをいやし、夕食のテーブルを囲む。それは遠くミレーの絵の収穫と祈りの世界のようでもあり、宮沢賢治のポラーノ広場のイメージでもあります。そこには、人間の幸せな暮らしと祈りがあります。
すこし、茨木さんについて、書き続けてみます。
次回もどうぞよろしくお願い致します。
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